寄稿情報と論考の紹介&補論:『STAR DRIVER 輝きのタクト』論と『化物語』『偽物語』論について

もはや廃墟化しつつあるこのブログですが(二回目)、宣伝します。
宣伝① 「セカンドアフターvol.2」に寄稿しました。
時の流れに響かせて――『STAR DRIVER 輝きのタクト』の声
というタイトルです。その名の通り『スタドラ』についての論です。5月6日の文フリ、ブースは【オ-07】、価格は500円です。ぜひお越しください。[公式→ http://d.hatena.ne.jp/second_after/20120504
宣伝② 「アニメルカvol.5」にも寄稿しました。
戦場ヶ原ひたぎは皮を剥ぐ――怪話劇 沈黙 怪異譚
というタイトルです。アニメ『化物語』『偽物語』と、〈物語〉シリーズについての論です。あと新房×シャフト作品レビューを6本ぐらい書いてます。
5月5日のコミティア、ブースは【の-16b】と、5月6日の文フリ、ブースは【オ-05】(セカンドアフターの2つ隣!)、価格は(多分…)1500円です。こちらもお越しください。昨年の冬コミで配布したものの超改訂版『マンガルカvol.1.1』もでるのでそちらもよろしくお願いします。[公式→ http://d.hatena.ne.jp/ill_critique/20120504



 二つの論考には、「伝承」というテーマが通底しています。
 そもそも「セカンドアフター」から受けた御依頼は、ざっくり言えば「浜松に関して」というものでした。自身の地元である浜松市は、東南海地震震源地として予想される場所からとても近く、かつ浜岡原発も遠からずな場所に位置している。さらに僕の家は海からすぐなので地震が起きた時に家にいたら津波で終わり、というかなり危ない環境にある。大きな地震の被害を直接に受けたことはないが、いつか大きな害を被る蓋然性が高い、という奇妙な「当事者性」と「外部性」の揺らぎに苛まれているわけです。
 しかしなぜか今回の論考にはそういった要素が全て抜け、『スタドラ』論になっている。これはどうしてかと言うと、その「揺らぎ」の根本にあるのが、この地域特有の「引き伸ばされた終末」という感覚だと思ったから、そしてこの「引き伸ばされた終末」という問題にまさしく直面してしまっているのが、『スタドラ』だと思ったからです。いつか必ず災害がやってくる。そう言われながら何十年もそれは起きない。けれども必ずやってくることだけはわかっている。そういった感覚にいかに対応すればいいのか。論考を書きながら考えていたのはこのようなことです。その探求は、表面的には現れていませんが、その痕跡ぐらいは残っていると思うので、そこら辺を感じ取っていただけたら幸いです。もちろん『スタドラ』論としても成立している(はず)なので、本作が好きなかたにも楽しんでいただけるかと思います。
 などと書きつつ「伝承」に触れるのを忘れていましたが、『スタドラ』論では、その「引き伸ばされた終末」という感覚を突破するためのキーワードとして用いているつもりです。
 大きなカタストロフを孕む物語は、必ずその大災害を物語の最後にもってくる。つまり、もしそのような災害が物語の序盤や中盤に起きてしまったら、それはストーリーテリングとして破綻しているということです。物語はこのような業を背負っているために、いくらその災害が序盤でほのめかされていても、必ず「最後」までそれが起こるのを「引き伸ばさなければならない」。ここにあるのは今述べてきた「引き伸ばされた終末」と同じ問題系です。
 すなわち、そのような「いつか終わりが来る物語」のオルタナティブとして、終わりが訪れないものとしての「伝承」を取り上げているというわけです。
 「伝承」には大きく分けて二つの段階があります。まず「話を聞くこと」。そして「聞いた話を語ること」。この内『スタドラ』論では、「聞く」側に焦点を当てています。特に「不在者の声」を聞くこと。例えば虚構の登場人物。例えば死者。例えば物語そのもの。そのような者たちの声に、いかにして耳を傾けるか・・・こちらのテーマは、表面的に現れているはずです。


一方で、「語る」側に焦点を当てたのが『化物語』『偽物語』論です。
 とはいっても、この論の主な主張は、小説版〈物語〉シリーズにおける、ファーストシーズンからセカンドシーズンへの構造的な移行(複数化した語り手等)がなぜ起こったか、という理由をアニメ版『化物語』『偽物語』がその表現において雄弁に語ってくれているというものとなっています。つまり小説版とアニメ版との間にある関係性を取り扱っているということです。
 その際にキーとなるのが「沈黙の権利」です。なぜなら「伝承」は、その担い手が語りうると同時に、語られうる者でもなければならないからです。一人の人間が語り続けるだけではそれは「伝承」にならない。同時に誰かに語られ続けるだけでも「伝承」は成り立たない。つまり、語る者は、その語りを「止める」権利を持っていなければならない。
 このように考えた時に、〈物語〉シリーズのような一人称説の主人公は、その「沈黙」を許されない者だと言えるでしょう。もし彼が語るのをやめてしまったら、小説そのものが停止してしまう。その沈黙を表現するために例えば橋本治は紙面にひたすら「・・・」と並べ、例えば筒井康隆は実際に白紙のページをさらけ出していました。
 しかしアニメは違います。アニメは別に誰かが語らなくとも時間が進むからです。だから小説においてしゃべり続けなければならなかった『化物語』『偽物語』の主人公・阿良々木暦は、黙ることができる。すなわちここに「伝承」の契機が見いだせるというわけです。
 そしてその「アニメ」という場を利用して彼を沈黙の領域に連れて行ったのが、他ならぬ彼の彼女・戦場ヶ原ひたぎ・・・という風に論は展開します。
 阿良々木暦に沈黙が与えられる。それは同時に、彼に別の権利をも授けることをも意味します。それはここでは述べられませんが、人間の営みとしての「伝承」に最も不可欠なものだと思われます。その答えは実は既にこの文章でも示唆されているんですが、ぜひ論考を読んでみた上で、それを探っていただけたらと。

ということで、ぜひぜひ買って読んでいただきたく存じます。来て下さいー。

物語に生きる――『輪るピングドラム』雑記

もはや廃墟化しつつあるこのブログですが、チラ裏程度には使います。そしてきちんと宣伝もします。冬コミにて『マンガルカ vol.1』と『背景から考える』が出ます。僕は編集と一部対談校正、マンガルカに漆原友紀『水域』と尾玉なみえ純情パイン』のレビューを書いています。2日目東ポ28aと3日目東Q30aをよろしくお願いします。→公式サイトhttp://animerca.blog117.fc2.com/blog-entry-33.html


さて、ついでに昨日『輪るピングドラム』を観終えたので感想を書こうと思います。本作を語るにはまだ見終えてから日が浅すぎるし、そもそも日とか関係なく一筋縄ではいかない作品ではあるのだけれど、勢いで書かないととりこぼしてしまうようなこともあると思うので、書いてしまいます。いずれちゃんとしたの書こうと考えてます。


『ピンドラ』は運命の「乗り換え」を巡る物語だった。実際それは陽毬をいかに救うかという形で主題化されている。陽毬が死に至るという運命を「乗り換え」、死なないルートへ移行しなければ、という風に。このように書くと、物語が登場人物に与える苦難とは、いずれたどり着くであろう未来をいかに肯定するか、またその未来を否定した時どのような代償が与えられるか、というものである様に見える。しかし「未来」を主軸に置くのは間違いだろう。『ピンドラ』の構造はむしろ「過去」を突きつけている。そして「乗り換え」に関わる電車、そして改札や発車標は、まさに「過去」の隠喩である。この結びつきを得るのは容易で、なぜならば発車標はまさに「回想」の入口として機能しているからだ。ただここにはもう一つ隠された結びつきがある。「乗り換え」は「過去」と同時に、「現実」の隠喩でもあるのだ。
 振り返れば『ピンドラ』は聖地巡礼的な想像力を思わせて始まっていた。サンシャイン水族館と思わしき場所で最初の事件は起きるし、彼らは現実の地名を巡る。しかし同時にこの物語は極めて演劇的であった。そして都会のど真ん中に建てられた時籠ゆりの父の作品や、苹果が自らの恋路を成功に導くために用いた奇妙なカエルなどを目にしていくことによって視聴者は気づくことになる。この世界は現実の上に虚構が重ねられているのではなく、虚構に対し現実が介入しにきているのだと(あの特徴的な平面モブは、水族館と電車の中で時折実体化=脱虚構化する)。この介入が始まったのは「16年前」のあの日である。この時『ピンドラ』の世界とこちら側の世界が交錯した。彼らが乗る電車はいつも過去を掘り起こす。さらに眞悧の語る「運命の至る場所」とはまさしく「あの日」のことである。
眞悧に着目すれば彼は自身のことを「呪いのメタファー」だと言う。虚構と現実の二重構造に自覚的なのだろう。そうでなければ自らを隠喩だと規定できるわけがないのだ。もっと言えば「幽霊」という言葉もまたこの意味において理解される。彼のさまようこの世とあの世とは、まさしく虚構と現実を指している。
 「乗り換え」とは決定された未来行きのルートを変更するものではなく、既に起きたはずの過去をなかったものにし、今ある現実に別の歴史をすげ替える機能であったことを確認した。では「未来」と「虚構」を担うものは何か。それが「運命の果実」である。名前からしてそれを象徴する苹果は言う。「運命を乗り換えようだなんて考えたことない」。この時彼女が否定しているのは未来を変更することではない。注意深く物語を追っていれば、過去を切り捨てることこそ彼女にとって考えられないことだったというのが分かるはずである。というか、むしろ彼女は既に書かれた「日記」をひたすら肯定するためにこそ、多蕗との恋路を成就させようとしていたのではなかったか。
 ではこの物語において対立するのは眞悧と苹果なのだろうか。そうではない。眞悧は16年前に「ピングフォース」として事件を起こそうとした結果「乗り換え」によって阻まれた、いわば素朴な悪である。この話にはもっと本質的な、呪いの「メタファー」などではない、真の呪いが存在する。それが「乗り換え」の行使者であり、苹果の姉、桃果である。『ピンドラ』は過去を担う桃果に、未来を担う苹果が抗う物語を孕んでいたのだ。
 その結末はどうなったか。確かに苹果は「運命の果実を一緒に食べよう」と叫んだ。しかしこれは桃果が16年前に唱えようとしたまさしく「呪」文でもある。その結果、物語の起源は「16年前のあの日」から、冠葉と晶馬が「運命の果実」を分け与えた日に「乗り換え」られた。「16年前のあの日」が歴史から切り捨てられることによって眞悧は敗北した。そして桃果は勝ったのである。眞悧と、そして苹果に。
 ただし本来消えるはずだった苹果は生きながらえた。彼女は桃果さながらに呪文を行使したことによって、またその呪文によって生誕日である「16年前のあの日」が歴史から消えたことによって消滅するはずだった。しかし消えたのは冠葉と晶馬であった。彼らはある罪を背負っている。その罪とは生まれてきたことそのものに他ならないが、それは単純に犯罪者の子供として、という意味ではない。恐らく二人は「16年前のあの日」に、自らの居場所を「現実」から「虚構」へと移しかえたのだ。この点において同じ日に生まれた苹果と高倉兄弟は決定的に異なっていた。そしてだからこそこの兄弟は罰を分かち合っていた。陽毬の死とその復活という「現実」ではありえない「虚構の論理」を突き付けられることによって。しかし彼らはあろうことか、罪と罰の起源を「運命の果実を一緒に食べた」日として捏造してしまった。それは虚構になじむ手段としては妥当である。二人の方略は桃果の思惑とよく馴染んだ。そして結局それは本当に「正史」になった。しかしこの兄弟はこの行動に伴う代償に自覚的だったのではないか。むしろ無自覚だったのは未来の象徴である果実と過去の象徴である電車を混濁した苹果の方である。だからこそ晶馬はその罪を請け負い、冠葉は自分たち兄弟と運命を共にさせてしまった陽毬の罪を代替した。彼らの願いは物語(=虚構)に生きることだった。最終的に二人は世界からその痕跡を消すこととなったが、ただそこに生きた意味を与えられた。ラストに現れた冠葉と晶馬の面影を残す少年たちは、意味が生まれた結果「正式」に物語に生まれた命だ。では「意味」とは何か。それこそ、陽毬が「いないはずの兄」に投げかけた「愛してる」という言葉である。この言葉の価値の基はその意味内容だけではない。それが発せられたのが、物語世界において最も未来に近い場所であった、このことこそが重要だ。陽毬のメッセージは、苹果の唱えたあの呪文からまさしく「呪い」を消し去った、純粋な救済の行使であった。

『魔法少女まどか☆マギカ』について―機能不全のインターフェイス

告知。『エロ年代の想像力』の出張版が、コアマガジンのWebマガジン『VOBO』で始まったそうです → http://vobo.jp/pg126.html 素晴らしいですね。週一更新と伺ってます。大変だ。
さて、アニメ『魔法少女まどか☆マギカ(まどマギ)』の話をします。2chスレの加速っぷり、考察の大量発生、まさに今期大勝利といった感じですが、その面白さは、視聴者の予想を裏切るというよりかむしろ、予想通りの展開だからこそという所にあるというのは、よく言われることです。決して裏切らないからこそ、僕たちは安心して盛り上がれるというわけです。
では、この予測可能性とは、何に起因するものなのでしょうか。例えば「こういう展開がきたから、次にはこういうことが起こるだろう」といったようないわゆるテンプレとはちょっと違う気がします。現に「まさか!」と思うようなことが次々畳み掛けているわけですから。つまり、僕たちが「順当な展開」と言うのとは逆に、実際には『まどマギ』は、先が読めない。しかし「裏切らない」。ここにおいて、本作品の「予想」と呼ばれているものが、かなり漠然なもので済まされているというのが、分かるかと思います。
結論を言ってしまえば、前に述べたように「安心して盛り上がれる」という意味において、『まどマギ』は裏切らないわけです。安定してキャラクターに災難が振りかかる。キャラクターは情緒不安定になり続ける。その範囲で、予想を決して超えない。こういうことです。ここで、このキャラクターにかかる負荷を取り去ってみましょう。つまりキャラクターには絶対に災難が降りかからないし、精神不安定にもならない。これはまさしく、「空気系」ではないでしょうか。確かに「安心していられる」という点で2つは共通している。実は、『まどマギ』は、空気系のキャラクターに負荷のベクトルを付け加えたものなのではないかと、考えることができます。
空気系における「安全さ」を保証していたものは、外部の放逐でした。つまり、あらゆる障害の因子となりうるものを作品世界から除去するということ。空気系には「近景」しかないと言われるのはそういうことで、セカイ系的な「遠景」も、社会や家族といった「中景」も、キャラクターにとって邪魔でしかないから取り去る。誰にとって邪魔か。それはキャラクターに萌えんとする視聴者のまなざしです。だから美少女に対する所有欲を妨害しないように、男性も作品空間から消える。しかし他と違うのは、男性的なまなざしが作品外の部分に、作品とセットで未だ健在しているということです。その「まなざし」だけは、作品世界内にいないだけで、きちんと作品に付随しているのです。
ではこのようにしてできた「空気系的空間」を、「まどマギ的空間」に転換してみましょう。どうなるか。すると、「男性的まなざしを受けている美少女キャラクターが、不治の傷を負い、魔法少女となって敵と戦う」、このような構造が浮かび上がってくるのです。この構造は、宇野常寛(@wakusei2nd)が『ゼロ年代の想像力』(早川書房、2008年)において提唱し、批判の対象としたセカイ系的「レイプ・ファンタジー」に、極めて類似しています。『まどマギ』は魔法少女に『仮面ライダー龍騎』のような決断主義的バトルロワイヤルの要素を加えたものだという見解が一般的(?)ですが、実はそうではなく、これは空気系によって男性のまなざしを隔離した上でもう一度組み直されたレイプ・ファンタジーなのではないかというのが、僕のこの記事における大きな主張となります。
では、『まどマギ』はセカイ系なのかというと、それも違うと考えられます。セカイ系において、美少女キャラクターはセカイ(内部)とファンタジックな出来事(外部)を媒介するインターフェイスであると黒瀬陽平(@kaichoo)は述べています。そしてさらにその「インターフェイスとしての美少女」がアニメにおいて、彼女の「目」と空間との関係を描くことによって表現されると論じます。

まず空間にキャラクターの目が置かれ、そこから向けられる視線の前と後ろで、空間は二分割される。キャラクターの背後は外部を表す空間として、いまだ物語に登場していないSF的、ファンタジー的なガジェットが象徴的に収納されている場所であり、まさにデータベース的空間である。(中略)そして、キャラクターの手前の空間は内部、こちら側として、ある種の現前性をもって描かれる。/「キャラクターが、見ている。――アニメ表現論序説」『思想地図 vol.1』、NHK出版、2008年、459-460項。

つまり、「近景」は「キャラクターに見られることによってアクチュアルになる」。しかし、あらためて『まどマギ』のキャラクターを参照すると、その瞳には斜線が引かれています。視線は妨害されている。キャラクターは「見ることができない」のです。なので、内部と外部のインターフェイスとして彼女らは機能しません。近景を現前させることができず、内外の両空間は完全に分離されます。これはキャラクターが位置する空間が、その日常場面(学校、家)でさえも非日常的に描かれていることから明らかです。すなわち『まどマギ』には、「遠景」しか存在しません。まどかを始めとするキャラクターは日常へのアクセスを絶たれ、無残にも外部に曝され続けているのです。一方、彼女らが「見ることができない」もの、「近景」はどこにあるのでしょうか。少なくとも作品内には存在しません。どこにあるのか。作品内にはないけれども、作品に付随しているものがあったはずです。そう、『まどマギ』において「近景」、すなわち「空気系的空間」とは、キャラクターを「安全」に見る「まなざし」があるところ、すなわち、僕たちがいるこの空間に他なりません。「近景」で戯れているのは、僕たち自身なのです。
そして『まどマギ』は、この隔離された僕たちこそを糾弾します。「空気系で美少女を完全に保護したつもりかもしれないけど君らの干渉できないところで彼女たちはがんがん災難にあわせますよ」と。障害を完全に追放した空気系的空間と、その空間にコミットメントする責任を完全にまぬがれた僕たちとが、非難されているのです。しかしその作品がそのまま当のレイプ・ファンタジー構造を有していることにも注意しなければなりません。
なぜレイプ・ファンタジーがダメなのかといえば、それは「自己反省ゲームの機能不全」が起こっているからでした。自分はもう反省をした、ということを免罪符にする一方で、結局「自分で責任を取らず、その利益のみを享受する決断主義」であること。しかし、さやかによってもう一度ヴァイオリンを手にすることができた上条に象徴されるように、『まどマギ』における男性、あるいは視聴者はそもそも責任を感じる可能性も、自己反省をする必要性も、かなり希薄化されています。本当に非難されるべきなのは、空気系か、僕たちか、作品自身なのか。だがまたしかし、その「希薄化」が、魔法少女自身の手によって行われていることも、忘れてはなりません。彼女たちは果たして誰の要請で、魔法少女になったのでしょうか。

可塑性、性、距離―アニメ『放浪息子』とキャラクター

まず告知。アニメルカオフィシャルサイトが誕生したそうです → http://animerca.net/index.html あとアニメルカvol.3のオンライン販売も開始されたようなので、ぜひお買い求めください。
さて、キャラクターをキャラクターたらしめるものとは一体なんなのでしょうか。今回はこの問いから始めて、アニメ『放浪息子』の話につなげていきたいと思っています。おそらくその核とは、「不可塑性」と言うことができるでしょう。つまり、「変わらなさ」です。その変わらなさにも2つあります。一つは「身体」の不可塑性、もう一つは「内面」の不可塑性。これがあるからこそ、キャラクターは物語を超えて自律することができるのではないでしょうか。
身体の不可塑性について。反対に、身体が変わるというのは何を意味するのかを考えてみましょう。それは「成長」です。大塚英志が日本のキャラクターは傷つくことができるようになったけど成長することはできない、というようなことを『アトムの命題』において言っていましたが、表現のレベルで言えばこれは当然のことで、そもそもアニメや漫画において「変わりゆく」身体を描くことはほぼ不可能です。切り取れる時間が限られているからです。「そして三年後…」などと言って時間をとばすことでしかそれは表現できません。(もちろん大塚の論はこんな単純な言い方に還元されきるものではないですが)
なので、キャラクターにおいてそれとは対照をなす「人間性」を付与するためには、身体ではなく内面に焦点を当てざるを得ない、ということになります。こうして考えると、エヴァなんかはその「キャラクター性 vs. 人間性」という対立に対してとても自覚的だったんだなあと思いますね。こうしてキャラクターの眼前には2つの分岐が示されることに。一つは「変わる」内面を描くという、キャラクターに人間性を付与するアプローチ。もうひとつは内面までもを「不可塑的」にして、キャラクターのキャラクター性をつきつめていくアプローチ。すると前者にはドラマ性が、後者には二次創作が生まれます。身体の場合と同じように、内面が変わるというのは何を意味するのかを考えると、そこには「経験を積む」ことが深く関わっていると言えるでしょう。ある経験を参照しなければ、内面の変化は当然起きません。上条当麻がそのキャラクター性、つまり「変わらなさ」を維持するために傷ついても毎回病院送りにされる(身体変化の修正)ばかりか、過去の記憶を抹消するはめになってしまった(内面変化の抑制)ことが思い起こされます。
さて、アニメ『放浪息子』ですが、これは前者のアプローチ、すなわち「変わらない身体」に「変わりゆく内面」を添えたものというキャラクター構成に、ひねくれた形で介入を測っています。
放浪息子』に通底しているのは「変化」というテーマですが、「変化」と「女性」は密接に結びつく記号なのだそうです。樋口桂子という学者がいるのですが、彼女は男性像が一般的な「人間」を視る者に喚起させるのに対し、女性像はまず性差を呼び起こすこと、女性は劇的な肉体的変質を通過するがために精神も具体的に変化せざるを得ないという宿命を持っていること、また国を問わずあらゆる民話における変身譚の当事者が女性であることなどを挙げ、「女性とは生まれながらにして変身し続けるものの名であると言ってよい」「女性の肉体とは、変身の記号である」と言い切っています。
今行われている話と結びつけるならば、変化をしないキャラクターは男性的で、変化をする人間は女性的(な描かれ方をする)ということになります。そして、『放浪息子』は徹底して女性=人間に焦点を合わせている。この物語の主人公は「女の子になりたい男の子」二鳥と、「男の子になりたい女の子」高槻の二人ですが、果たして僕たちは、この二人をそのように見ているのでしょうか。つまり、男性と女性というペアとして。もしかして、「「男性」性を志向する女性」と、「男性の中にある「女性」性」を見てはいないでしょうか
このように女性的=人間的=可塑的な描かれ方をしている一方で、アニメ『放浪息子』には原作とは違う奇妙な表現がなされています。まずキャラクターの頭髪が異常に光沢を帯びている。漫画版に比べても明らかです。というか、原作よりもキャラクターっぽさが増しています。ロボットのようです。あざとい言い方をしてしまえば、「アトム」です。そしてもう一つ。原作にあったはずの小学生時代の話がばっさり切られ、中学校入学から物語が始まっています。話数の都合といってしまえばそれまでですが、これは「経験の切断」と言っていいでしょう。つまりアニメ版においては、身体、内面両方においてキャラクター性が志向されています。彼らは「偽造記憶を植えつけられたロボット」なのです。例えば高槻は胸の変化に、ニ鳥は声の変化に怯えていますが、視聴者はその変化を実際に目撃できるのでしょうか? 意地悪く言えば、彼らは全く何の身体的変化もしていないのにそう思い込んで悩んでいるのです。彼らはこれまでの経験を経て、つまり変化してこなかったものが突然変化し始めたことで悩んでいるのではありません。彼らは生まれた時から(・・・・・・・)この悩みを抱いているのです。
するとアニメ『放浪息子』のキャラクターは「変化」というモチーフとは逆に極めて「不可塑的」であるということになります。「変化」の可能性が打ち消されているのです。しかしもう一つ、見逃してはならない点があります。それは背景とキャラクターが溶け合ったような水彩の画面です。さきほど紹介した樋口は、こう同書同章でこう述べています。すこし長くなりますが、引用してみます。
女性とは、自らの肉体の変化に合わせて精神を変え、そしてあらゆる要素を飲み込み、そしてさらにもっと飲み込んで行こうとする貪欲な飽くなき力そのものである。男性にはこれが理解出来ない。なぜなら男性の思想は、ものの姿を捉えようと、距離を以て客観的に対象を見、それを外化し客観化しようとする、歴史を支配してきた思想であるので、女性のこの力、すなわちすべてを吸収し、自ら留まることなく変容していく戦略がわからないのである。何かを見たいのなら、それを見るための距離をとらなければならない。近すぎるものは見えない。(略)しかし女性像とは、距離を措いてさえ捉えきれないものの名である。(略)女性の肉体とは、変身の記号である。この記号は疲れることを知らずにすべてを吸収して行こうとする。そこに距離はもはや設けられないだろう。
女性の「変容性」に「距離の無さ」が伴っていることをこの文章は示唆しています。そしてアニメ『放浪息子』の背景とキャラクターの間にも距離が設けられていません。キャラクターの固着された身体及び内面を、背景が溶かし込んでいくかのようであり、キャラクターの物語からの自律性を奪っているようでもあります。高槻やニ鳥において棄却された、内発的な変容の可能性は、風景によって担保されているのです。このことは何を意味するのでしょうか。それは今後明らかになっていくことでしょう。
ところで、風景とキャラクターの距離が、『放浪息子』とは逆におもいっきり開いている作品が今期ありますよね。『魔法少女まどか☆マギカ』において、日常パートの空間は奥行きが押し広げられ、異界パートはレイヤーが多重に乗っかっています。2つの間の「遠さ」が露骨に演出されているのです。(そういえば「セカイ系」とは、「遠さ」を発生させることによって所有欲を駆動するという極めて男性的な想像力でした)そしてその遠くにあるレイヤーはキャラクターの成れの果てのような姿をして、主人公らを襲いにきます。流動的な「変容」ではなく、一気に「変身」せよと言わんばかりに。そして「変身しなよ」と直接的に言っているのは…。

引用文献:樋口桂子著『イソップのレトリック メタファーからメトニミーへ』勁草書房、1995年

告知と序論の序論『アニメルカvol.3』

せっかく立ち上げたのにいきなり4ヶ月もほったらかしなこのブログに、告知という役割さえもはや与えられないような気もしますが、それに加えちょっと書きたいこともあるので、こうして筆を執っている次第。
ではまず告知から。
アニメ批評同人誌アニメルカvol.3』(特集:アニメ表現論)に、「収斂する欲望――アニメというマトリックスという論考を書かせていただきました! 公式サイトはこちら→ http://animerca.blog117.fc2.com/blog-entry-20.html
これを見る限り、僕以外の寄稿者、あるいは参加者の方々はみなさん実力者ぞろいなようで、寄稿という経験自体初めてな者にとっては、恵まれた場に身を置かせてくださって感謝という思いと同時に、おいこれやばくねという戦慄をも覚えています。ともかく、非常にハイクオリティな内容になっていることは間違いないので、ぜひお買い求めいただければ。12月5日の文学フリマ、年末のコミケで販売された後、webでの委託に移るようです。

そしてマトリックスへ…

さて、肝心の内容ですが、そのきっかけをたどるとまず最初の着想は「物語の矛盾はどう受け止められていくのか」という疑問に始まります。例えばバトル漫画において、汚れていた服がいつのまにかきれいになっていたり、ちょっとしたギャグパートでキャラクターが受けた傷が一瞬で治癒していたり…。これは物語というある流れの中に差し挟まれた明らかな「エラー」ですが、そのような非整合性は読む人たちには多少の抵抗はあれ、スルーされていきます。
これって考えてみると結構不思議なことで、つまり何をスルーし、何をスルーしないかという選択基準は、かなり曖昧なわけです。しかし「これをスルーせよ」「これはしっかり受け止めよ」という信号を「モデル作者」(エーコ)が発し、「モデル読者」はきちんとキャッチする。二者の間に共犯関係が生まれ、よくよく考えてみるとなんだかよく分からない「不文律」が醸成されていく。これってなんでしょねと。
そんな折に、「暗黙知」(ポランニー)という概念をこの「不文律」と結びつけてはどうかと思いつきます。「暗黙知」の形成にはどうやら「部分と全体」が必要になってくるらしく、すると今度はその「部分と全体」を扱う「換喩」という修辞法に思考が結びつきます。
このブログで最初にとりあげたテーマが、「霊」と「怪」、そして「隠喩」と「換喩」に関するものでした。これは自身に一貫した問題系として考えることができるなと。
そんなこんなでできあがった論は、まさしくその「暗黙的認知」と「換喩的認知」をベースに『けいおん!』(特に二期)を分析するというものです。そこでは、作品を受容する際に立ち現れるあらゆる欲望が、打ち消されることなく一つの「意味の流れ」の内にまとめあげられていく過程が記述されています。視聴者の千差万別な欲望を逃すことなくとりこむことができ、さらに作品の強度も保たれていれば、それって素敵なことですよね。
「大衆の欲望」こそ重要となったサブカル以後のコンテンツにおいて、こういったテーマは語られてしかるべきです。しかしさらに大事なことは、ここに「作り手」と「受け手」の欲望すら収斂させる契機が見出されうるということで、そしてその契機こそ、アニメにこそあるのではないか、というのが本論の最終的なメッセージとなっています。その「欲望収斂装置」として立ち現れるアニメ、すなわち「暗黙的認知」、「換喩的認知」を発生させる「マトリックス」とは何なのか!! それはぜひ『アニメルカvol.3』をお買い上げ頂いた上で、その目でお確かめください。
と挑発しつつ、このような奇跡的な機会を与えてくださった責任編集の反=アニメ批評さん、2号まで責任編集を務めておられたEPISODE ZEROさん、その他たくさんの方達に感謝し、序論という名の告知を終わろうと思います。

四畳半神話大系から導きだされる「霊」と「怪」

最初に

 今になってようやっとプログをつくってみました。twiiterでいろいろ考えたことをつぶやいてる内に、まとまったものを書いてみたいなということで。順序が逆な気もしますが、あしからず。
 で、何に関してまとまったものを書きたかったかといいますと、タイトルにもあるとおり、アニメ『四畳半神話大系』(以下『四畳半』と表記)についてなんですね。最初はエンドレスエイトかよなどと言われつつも、評判よろしく、とはいえそれについての文章は見かけず、それじゃあ僕が書きます!と。もともと森見登美彦が好きなこともありますし、アニメに単純に大きな刺激をうけたこともあります。言語化衝動が沸き上がってきたのです。
 あと、同時期にこんな議論をtogetterで読んだこともあります。
 『キャラクターは怪か霊か? ーーリアルに異形なものを持ち込むか、仮想世界に異形な痕跡を実現するか。』
 http://togetter.com/li/14205
 これにも大変刺激を受けまして、『四畳半』について考えていたこととこの霊-怪論が接続できるんじゃないかという電波も受信し、こうしてテスト期間が終わるまで、脳内でアイデアを醸成していた、そういう次第です。
 したがってここでは『四畳半』について考察しつつ、そこから「霊-怪」というのをテーマとしてます。
 では本題に入ります。

『四畳半』その1:作品内容・構造・ここがすごい!

 『四畳半』は森見登美彦原作の同名小説をアニメ化したものなんですが、まずどういう話かといいますと、うだつの上がらない大学生の主人公が選んだサークルによって様々な運命をたどるという、いわゆる並行世界ものです。こう書くとSFっぽいですけど、実際は大学生の日常をベースとしたマジックレアリズム、かつ主人公の自意識加減が香ばしく描写されており、とってもコミカルな話となっています。
 原作は4章立てで、それぞれが各生活、つまり「このサークルを選んだ場合」の主人公の顛末が描かれています。これがアニメではその章/「場合」が増やされることによって、1クール保ってます。つまり、主人公「たち」は別々の人間であり、当然一つの生活しか経験していません。並行世界だから当たり前だと思われてしまうかもしれませんが、ここが結構重要なポイントです。
 この物語の肝について。主人公はどの場合においても自身の生活を嘆いており、そのサークルを選んだことを後悔しています。そして最終章では「どのサークルにも入らなかった場合」が描かれるのですが、すると主人公が、自身の部屋(四畳半)に閉じ込められてしまいます。ドアや窓を開けても壁や天井を壊してもそこに広がるのはまた別の四畳半で、そこで彼はそれが「別の自分」の部屋だと気づきます。並行世界と四畳半を介してつながると。そして各四畳半をさまよったあげく、最終的に「選択、決断すること」への大切さを見出し、その迷宮から開放され、ハッピーエンドとなります。その世界の彼自身が肯定されると共に、知らず知らず別世界の彼「達」も肯定されるのです。
 このアニメの面白いのは、小説におけるマジックレアリズムが、特殊な形で表現されていることです。順を追って説明します。
 まず、主人公の強烈な自意識が、過剰なイラストレーションによって表現されています。画における表現が普通のアニメ以上に超現実的です。キャラクターの身体がありえない変化をしたり、心象風景のようなものがめくるめく展開されていたりします。「普通の大学生活(?)」の話を描いてるだけに、それが異様に見えます。当然その「過剰さ」は表現レベルのものであり、彼らの現実の次元において実際そのようなことがおこっているわけではありません。
 しかし、その「表現」が、「現実」の次元に降りてきます。それが「無限の四畳半」です。その「四畳半の迷宮に閉じ込められる」というのは本来彼の「選択したくない=世界に干渉したくない」という自意識を投影した「表現」レベルのもののはずなのです。それが「現実」を侵食してしまい、「本当に」主人公は並行世界をさまよってしまうこれが『四畳半』のすごいところです。小説において「表現」と「出来事」は読者にとってきちんと区別され得るものです。例えば「僕はその時8月の風となっていた」と書かれていたとき、「そうか、こいつは風と化したのだな」と僕らは通常思いません。比喩ですから。しかしこのアニメでは、その2つのレベルを分かつ境界が取り払われている。アニメの表現がもつ「過剰さ」を、アニメ内世界の「現実性」と混合させるというこの手法によって、『四畳半』は原作には到達し得ない地平にたどり着いたと言えます。そして「表現」が世界そのものとなった途端、代わりに描写には現実性が、「実写」が投入される!! 実際の風景(それは主人公が彼自身の世界において認識している風景のことです)を僕らは見ることになり、逆に「自意識」の風景(いわゆる脳内世界)が主人公に現前するという転換が起こっているのです。
 しかしでは、なぜそのように「表現」と「現実」の次元が入れ替わってしまったのでしょうか。なぜ主人公は、「本当に」四畳半の迷宮に閉じ込められてしまったのでしょうか。

「霊」と「怪」その1:『四畳半』との関わり

 ここで一旦、こっちの話に移ります。まずなぜ『四畳半』と「霊-怪」を結びつけるという発想に至ったのか。こちらを御覧ください。先程のtogetterからの引用です。
 リアルに異形なものを持ち込むか、仮想世界に異形な痕跡を実現するか。怪か霊か。
 僕として興味があるのが、いわゆるキャラクターというものが、「霊」と「怪」の二重性を持っているのではないかという仮説ですね。「霊」の側面では、キャラはn次創作的に拡散していく。と同時に、その旅路においてなお維持されるキャラの「身体」のようなものの積極性が「怪」
 前者が東浩紀氏、後者が千葉雅也氏のツイートです。ここでは明らかに「霊」の存在について並行世界が念頭に置かれている。並行世界…ハッ! と、つまりはそういうことです。さらに現実が異形化するという部分は、前述した「表現」が「現実」に侵食するというところと結び付けられます。言い換えれば『四畳半』は現実が「怪」となり主人公は「霊」に化ける話ということになります。ただ、これだけではちょっと説明がうまくいってませんね。「怪」における「身体性」についても言及しきれていない。もう少し霊と怪について踏み込んで考察してみましょう。

「霊」と「怪」その2:パロール

 『四畳半』において、もう一つ注目すべき点があります。それが主人公の強烈な語り(パロール)です。彼はものすごい速さで語る。役者さん大変だなあと思った方も少なくないと思います。そして彼の自意識=脳内世界はまさしくそのパロールによって構築されている。認識は言語の外にでませんから。「四畳半の迷宮」は、彼の言語的認知によって生成されたといっても過言ではないのです。
 さらにここで少し飛躍してみます。言語的認知、そなわち事物そのものに対し意味を与える過程においては、「換喩」の力が働いています。手元にある『思考の用語辞典』(中山元著、ちくま学芸文庫)から「換喩」の項目を取り出して読んでみると、
 認識において、言語よりまえに比喩や象徴がはたらいている(…)
 とあり、さらに
 (…)ソシュールがサンタグマ(統合)とパラティグマ(連合)というふたつのメカニズムを区別している。文の線形的な構造がサンタグマ(統合)。文でつかわれる語の背景にありながら、その文でつかわれてない語の世界がパラティグマ(連合)だ。(…)この区別にもとづいてヤコブソンはいう。統合は換喩のはたらきで、連合は隠喩のはたらきだと。(…)人間の語る文は、隠喩によってささえられた言語の豊かな世界のなかを、換喩による置き換えの力ですすむといえるだろう。
 この記述から、「霊」と「怪」と「パロール」をつなぐある発想が浮かびます。それは「霊と怪」=「隠喩と換喩」=「連合と統合」という対応関係です。「霊」は連合関係によって成り立つ隠喩的作用であり、「怪」は統合関係から成る換喩的作用。一方でこれら2つの作用は元々僕らに内在する「普通の」認知過程でもあります。したがって認知が言語に達し、さらにその言語化が普段の水準を超え「過剰」となったとき、その過剰さは「超常」に至り、「霊」や「怪」は現前すると言えます。『四畳半』では過剰に「多く」言語化された認知が「発話」されることでこの現前作用が生じましたが、言語化が過剰に「少なく」とも、あるいは言語化が発話に至らず脳内で展開されていても、同様の作用は起こると考えられます。

『四畳半』その2:別次元、別位相、時間

 このアニメには、話の最後に「時計」の描写が挿入されていました。時間が巻き戻る様子が描かれた所でエンディングテーマが始まり、次の週再びサークルを選ぶところから始まる場面へつなぐという演出です。しかし、これはいささか不可解です。各主人公はあくまで並行世界を生きているのであり、彼らの時間が実際に巻き戻っているわけではありません。確かにパラレルとループは同時に起こったって矛盾はしませんが、各並行世界(位相)の彼らは最初に言ったとおり、別々の人間なのです。つまりこの「時計」は視聴者、僕らに向けた「来週もっかい最初からですよ」というアテンションなのです。
 だがまたしかし! ここに矛盾が認められます。それはまさしく「なぜ主人公は四畳半の迷宮に閉じ込められたのか」という問いに根ざすもので、ぶっちゃけてしまえばその理由は「その決断(=選ばないという決断)が間違っているから」に他ならないのですが、一方で視聴者はこう思うはずです。「サークル入らなかったのって、今までの(話の)選択にことごとく後悔したからじゃないの?」 主人公は自分自身の意思で「サークルに入らなかった」ようでいて、別位相の、別の自分の「後悔の声」を無意識のうちに聞いている「はず」なのです。けれど「後悔」というものが結果に根ざすものである以上、その「声」は過去のものでなければならない。各話は並列関係を成しつつも、直列につながっていなければならない。とすると、時計は物語の内部に向けても作用してなければならないのでしょうか。
 この矛盾の問題から一気に結論に向かいます。まず、『四畳半』には、その物語を生きる主人公の次元と、物語を見ている僕らの次元(メタ次元)が存在します。各話において主人公の次元は並行関係をなしているのに対し、僕らの次元は直列関係を成しており、その両次元は「表現=自意識」を境にくっついています。そして主人公の語りは「僕ら=メタ次元の人間」に向けられている(主人公は「諸君!」と僕らに呼びかけます)。したがって時間関係の異なる2つの次元は、彼の語りによって越境されているのです。まさしく彼の過剰なパロールそのものが異次元の時間の流れを利用して「自分の声」をメタ次元に蓄積させていて、その結果、メタ次元にためられた声は今度は両次元の境の「表現=自意識」を引き連れて主人公の現実に干渉、自意識によって侵略された現実から追い出された「現実性」は、逆に表層にのぼってくる(=実写)のです。二つの次元にある時間の矛盾それ自体が、「四畳半の迷宮」の生成メカニズムの基盤となっている、ということになります。

「霊」と「怪」その3:主人公が見る「自分」

 長くなってしまいましたが、最後にもう一歩、霊と怪について考えてみます。『四畳半』のある話数で、部屋の壁から突然ひげがぼうぼうに生えた人間が出現し、主人公が驚いてその壁を荷物で埋め立てる、という場面があります。その正体は並行世界をさまよう自分自身だと後になってわかるのですが、このとき二人の見ているものは同じ「自分」のようでいて少しちがいます。まず驚いた方の彼は、その正体が自分であるとは知りません。そして単純に「それ自体」に恐怖している。一方で迷宮を渡り歩いている方の彼は、それが自分であることを知っている。さらにその自分が他にもたくさんいるであろうということも理解している。
 ここで〈「霊」の側面では、キャラはn次創作的に拡散していく。と同時に、その旅路においてなお維持されるキャラの「身体」のようなものの積極性が「怪」という千葉氏の言説をもう一度思い起こしてください。ここから、驚いた彼はもう一人の自分を「怪」と認識し、驚かれたほうの彼は相手を「霊」と認識していると考えることができます。霊と怪は言語の関連タイプの差異からくる認知過程によって発生すると先に述べましたが、その発想を言語の枠から認識一般に拡大すると「怪」は事象それ自体の認識、対象を直接把握する作用に根ざすものであるのに対し、「霊」は事象同士の関係の認識、対象間の関連性を把握する作用に根ざすものであるということになります。
 そういえば斉藤環氏が、『関係する女、所有する男』において「関係原理」と「所有原理」という概念を提唱していました。この原理と霊-怪の対応についても、考えてみると面白いかもしれません。

最後に

 『四畳半神話大系』についてはたくさん思うところがあり、エンドレスエイトとの比較から反復と差異について、並行世界の自分に対する応答責任について、そしてそもそもなぜ主人公は「僕たち」に語りかけたのかということについてなど、言い足りないことはまだあるのですが、今回はあくまで「霊」と「怪」の問題から離れないように書くことを目標に。うーん、どうでしょうか。とにかくここまで読んでくださった方、ありがとうございます。おつかれさまです。まだ労力の残っているという強靭な精神力を持つ方がいらしたら、レスポンスをくれるとより嬉しいです。